2018年9月17日 (月)

説教における過去と現在のキリスト

説教するとは、煎じ詰めれば「イエス・キリストとその恵みの世界」を語り告げるということであろう。

キリストは旧約聖書の本質を明らかにされた。「この聖書は、私について証しをするものである」(ヨハネ5:39)と。また旧約聖書の代表的人物モーセについて語っておられる。「モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ5:46)と。これこそキリストの旧約聖書解釈の核心であった。

初代教会における旧約聖書解釈と説教はまさにこのキリストの教えを受け継ぐものであった。聖霊に満たされたペテロは説教した。「神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました」(使徒3:18)と。旧約聖書の預言者すべては、来るべきメシヤの受難について語っており、神はナザレのイエスにおいてまさにそのことを成就された。これが初代教会の旧約聖書解釈であり説教だったのである。

新約聖書はイエス・キリストの言行録であると同時にイエス・キリストに対する初代教会の信仰証言の記録である。ゆえに旧約聖書、新約聖書から説教することは、その核心そのものであるキリストをこそ説教するところへと絞られていく。

しかし聖書が語るキリストを説教すると言った場合、「過去」のキリストのみを説教するのでは不充分である。聖書における過去のキリストとその恵みの御業をどれほど素晴らしく語ろうとも、その次元で留まっているならば、素晴らしい「昔話し」を語っただけのことである。

「イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも変ることがない」(へブル13:8)と聖書は語っている。「昨日のキリスト」は、「今日のキリスト」として「いつまでも変わることなく」私たちと共にいてくださるのである。

ならば、そのイエス・キリストは、今、どこに、どのようにしておられるのであろうか。実は今日のキリストの現臨を見えるようにさせてくれるものこそ聖書である。この聖書における「昨日のキリスト」を、まさにその聖書の光に照らされながら「今日のキリスト」として探し求めることが説教者に託された務めなのである。

説教者は自らが仕える教会というコンテキストとそのはるかな広がりにおいて「今日のキリストとその恵みの御業」に出会うのである。それが見えてくるには常に霊的な眼差しの養いが求められるであろう。それがまことに見えてくるのは聖書という光によってこそである。

説教とは、聖書が示す「過去のキリスト」が今も変わりたもうことなく「現在のキリスト」として私たちと共に歩んでいてくださる現実に出会い、あらためて聖書をもってその恵みの現実を確認し、聖書を掲げつつ、そのことを喜びにあふれて語り伝えようとする光栄ある営みなのである。

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2018年9月16日 (日)

幸いな「ジレンマ」

「板ばさみ」あるいは「ジレンマ」とは、「板と板との間に挟まれて身動きできないという意味から、対立する二者の間に立ってどちらにつくこともできず、苦しむこと」であると辞書には記されています。

伝道者パウロも「板ばさみ」になっていました。
「私はその二つのものの間に板ばさみとなっています」(ピリピ1:23)と告白しています。
対立する二つのものの間に立ってどちらにつくこともできず、悩んでいるのです。
二者択一を迫られ、どちらとも決めかねて苦しんでいるのです。

一つは、「世を去ってキリストとともにいる」(1:23)というパウロの個人的願望でした。
もう一つは、「この肉体に留まることが、あなたがたのためにはもっと必要です」(1:24)と考え、生き残ることです。
この「二つのこと」の間に自分は「板ばさみ」になっていると言うのです。

このパウロのジレンマについて、ある人は語りました。
「絶望の状態にある者は、悲惨の中でその生を生き長らえるか、死によってその苦痛を終わらせるか、そのどちらを選ぶべきか当惑する。
しかしパウロは反対に、生きる状態も死ぬ状態も、キリスト者にとっては幸せであるから、喜んで生きもし死にもする。そのどちらを選ぶべきか率直に言って分からないと、言っている。」
何と深い洞察であることでしょう。

パウロは二つの「絶望」の間で、板ばさみになっていたのではありません。
むしろ、二つの「幸い」の間で、板ばさみとなっていたのです。
同じジレンマとは言っても、なんと趣の異なったジレンマであることでしょう。

私たちの人生の歩みにおいても、私たちに迫ってくるジレンマがこのような素敵なものであるならば、なんと幸いでありましょう。

そのような「板ばさみ」となっていたパウロではありましたが、「この肉体に留まることが、あなたがたのためにはもっと必要です」(1:24)と語り、自分の「個人的幸い」よりも、「教会の人々の必要」をより優先させ、後者の道を選び取ったのでした。

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2018年9月14日 (金)

「パウロの労苦」を思う

ここ数年間にわたって、これまで経験したことのないような深刻な複数のトラブルに私自身は巻き込まれることとなりました。
数えればそれらは四種類です。
しかし、それら四つは時系列にきちんと添って起きてはいません。
幾つかは複合的に絡み合ってもいるのです。

そのような苦悩の中、パウロの艱難辛苦が記されている聖書の箇所を読むこととなりました。
それはパウロ自らが語る労苦のリストです。
しかし、私はこれまで何と浅い読み方をしていたことでしょう。
パウロの艱難辛苦の数々を「時系列的」「平面的」にしか読んでこなかったのです。
しかし、それらは「同時並行的」でもあり、「複合的」に絡み合って起こっていることを、自らの体験を通し、教えられたのでした。

例えば、「投獄」の苦しみは、それだけが独立して起きているのではなく「同国民の難」「異邦人の難」「鞭打たれること」などとも絡み合っているのです。パウロは同国民からも、異邦人からもしばしば迫害され、投獄され、鞭打たれてもいるからです。
「飢え渇き、寒さに凍え、裸でいた」と記されていますが、それらは個別に独立しているというより、「投獄」「鞭打ち」「難船」「困難な旅」等とも重なり合い、複合的に絡み合っていると思われます。
「教会への心遣い」は、パウロの伝道者生涯のすべてにおいて、つまりこれら労苦の数々すべてにも深く関わっていることでしょう。

それら様々な労苦を手紙などに書く場合は、個別にしか書き記すことはできないという限界があります。
一度に複数のことを複合的に言い表し得ないという、つまり混在する労苦の実相をそのままには描写し得ない論理の限界があります。
ゆえに言葉でもってしか描写できない文書などでは、どうしても時系列的、平面的な叙述となってしまうきらいがあるのではないでしょうか。
しかしよく考えれば、実際はそうではないのです。
実相を文言化してリアルに伝えきれない歯がゆさがあります。
そのような文章を、いかに実相に迫って読むことができるかは読み手の読解力によることでしょう。

私の読み方は何と浅かったことでしょう。
自らの浅薄さ、読解力の無さを嘆くばかりです。
しかし今回のことで、聖書をより深く理解することにおいて一歩前進出来たかなと思います。
パウロ理解が私自身の中で、これまでより少し深化したのではないかと考え、とても嬉しく思っています。

                                    【伝道者パウロの言葉】

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」。

                                  (第Ⅱコリント11:23~29)

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2018年9月13日 (木)

キリストのえこひいき?

「ヨハネ福音書」には不思議なことが記されています。
それは、その福音書を書いたとされる十二弟子のひとりヨハネが、自らを「イエスの愛された弟子」(20:2、21:7、21:20)と呼んでいることです。
このような言い方が果たして許されるのでしょうか。
主イエスの弟子は、他にもペテロあり、ヤコブあり、アンデレあり、沢山います。
その中で自分が主イエスからとりわけ愛されているようなことを言っていいのでしょうか?

もう一つの見過ごしに出来ない重要な問題があります。
それは、主イエスはえこひいきをされたのかということです。
他のどの弟子にもまさってヨハネを特別に愛されたというのでしょうか?

それらの問いに対する答えを与えられる時がやって来ました。
軽井沢で音楽のセミナーが開かれたのです。
講師は私たちにかつて音楽を教えてくださった老齢の女教師でした。
かつての同窓生仲間の私たちは思い出話しで盛り上がりました。
すると、ひとりが言いました「僕はM先生に一番愛されたと思う」。
ところが、それを聞いていた何人かが不満そうに反論を始めたのです。
「いや、違う、私のほうが愛されていたと思う」。
「そんなことはない、私こそ一番可愛がられていたと思う」。
それぞれが張り合うようにして、そのような自己主張を始めたのです。
私自身もそのようなことを口走ってしまった者の一人でした。

しかし、一通りそのような奇妙な議論が続いた後で結論らしいものが出されました。
「そうなんだ。それぞれが自分はM先生から一番愛されたと思い込んでいるんだ。そう思っていてもいいんだよね」。
実は、M先生はえこひいきして誰かを特に愛されたということはなかったのです。
けれども、私たちはそれぞれ自分が一番愛されたと思い込んでしまっていたのでした。

その体験を通して謎が解けました。

ヨハネは自分が本当に主イエスから愛されていたと心の底から思っていたことでしょう。
ですから、自らを「イエスの愛された弟子」と書き記すことも不思議なことではなかったのではないでしょうか。

主イエスは弟子たちそれぞれを差別なく深く愛されたことでしょう。
ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、弟子たちそれぞれが自分こそ最も愛されていると思い込み錯覚してしまうほどに。

ヨハネが自らを「イエスの愛された弟子」と認めるのは、「差別において」知らされる愛によるのではなく、その「徹底した深みにおいて」知らされる愛によるものだったのではないでしょうか。

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2018年9月12日 (水)

老人と若者の確執

老人と若者の確執について、ポール・トゥルニエの指摘は急所を突いていると思います。

「老実業家や専門家が退職の規定に反抗し自らの支配者の地位に固執していることがしばしば見られます。彼らは若者たちに尊敬を強要しますが、若者たちの方は早く取って代わろうと望んでいて、いずれは彼らを真似しながら復讐してやろうと思っているのです。
こういう老いた闘士に対しては『よくいつまでもお若くて』と言われますが、これは賛辞であると同時に非難でもあるのです」。(『老いの意味』240頁)

そのような確執の歴史を聖書も記録しています。ソロモンは偉大なイスラエルの王でした。しかし、その息子と彼を取り巻く若者たちは豪語したのです。

「私の小指は父の腰よりも太い」(第一列王記12:10)と。

しかし上記のような現実を認めつつも、トゥルニエは建設的な提言をしています。耳を傾けるに値すると思います。

「我々の現代社会において、老人の果たすべき役割はもはやなくなっている。これは自ら廃品扱いにされていると感じている老人たちにとっては恐ろしいことです。と同時に、彼らの発展に欠くべからざる影響を与えるはずのものを奪われている若者たちにとっても、それは残念なことなのです。つまるところ、全社会にとっても、手足をもぎ取られたように不幸なのです。
この社会全体は今、若者たちの熱狂的なリズムに合わせてバランスも取れないままに廻り始めています。誰もが息せき切って目先の緊急時に走り、全体の問題を時間をかけて考えようとする人は一人もいません。これはおそらく、この必死に働き廻る人たちが突然空虚な思いにとらわれる日まで続くことでしょう。
老人たちに我々の社会で生きる場所を返さねばなりません」。(『老いの意味』137~138頁)

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2018年9月11日 (火)

説教者を襲う困難

このブログの「私の説教準備」という項目において、説教がその準備段階で完成しない苦悩について考えてみた。時には説教者の努力不足にもよるであろう。しかし最も深いところにおいて、説教における神の主権を神ご自身が確保されるのだということ。そのことを説教者に改めて思い知らせ、神ご自身に頼らせる信仰へと至らせようとするところにあるのではないだろうか、ということを以下のように述べたのであった。

「確かにいつまで経っても説教は自分の力量や経験のみで準備し、語ることはできないということを痛感させられている。どうもがいても神の助けなしには出来ないのである。つまり神は、説教者ではなく神ご自身が栄光を我がものとすることを求めておられるのではないだろうか。説教準備に行き詰まり、ひたすら神に助けを叫び求めながらその説教が出来上がって行く時に、説教者は神の存在とその力を認めてひれ伏さざるを得ず、そこにおいて神はまさに神となられるのである。この霊的体験を携え、神からこそ与えられたメッセージを語る喜びにあふれて説教者は説教壇に立つのである」。

しかし、そこにもう一つのことを加えたいと思う。説教原稿等は出来上がっていても、神に助けを叫び求めずには説教壇に立てないようなところへと説教者はしばしば追い込まれるということである。それは説教者に襲いかかる困難によってである。困難の内容はさまざまではある。困難は外からも内からも押し寄せてくる。

そのような困難の嵐に説教者は果たして耐えられるのか。自分の力に頼ってどこまで持ちこたえられるのか。人間はもろいものであり、困難の嵐に襲われる姿は「風前のともしび」という言葉そのものであろう。説教者もそのように弱い人間のひとりに過ぎない。襲いかかる困難に対して説教者もまた非力でしかないのである。

そこにこそ神は来臨されるのである。説教者が自らの弱さを思い知らされ、神にこそ助けを求める時、神はご自身の僕である説教者を助け、説教壇に立って語り得る者と成してくださる。それこそまさに「神が神となられる」出来事である。

パウロは「我、弱き時に強ければなり」(第Ⅱコリント12:10)と告白したのであった。その真理を説教者もまた体験させられるのである。これこそ説教者がそこに立つことを常に求められている説教の原点なのであろう。


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2018年9月 9日 (日)

苦悩の中で聞く神の言葉

悩み苦しみの多い人生を歩まざるを得ない私たち。
しかし神は聖書を通し、深い慰めと励ましの言葉をいつも私たちに語りかけておられます。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(第Ⅰコリント10:13)

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ロマ書8:28)

もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(ローマ書8:31)

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(第Ⅱコリント12:10)

強く、また雄々しくあれ。(ヨシュア記1:6)



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2018年9月 7日 (金)

老人の頑張り

老人の頑張り

(スイスの精神科医ポール・トゥルニエが73歳の時に書いた文章ですが、私もそうなりたいです。)

秋のさなかに夏が到来することさえ、決して特に喜ばれるべきことではありません。それはむしろ「変調」ととらえられべき兆候なのであって、将来、普通の人よりもっと悪い状態を迎えるだろうことを予測させるものです。

自分は働けるのだという一つの幻影を保ち続けようとして、毎日、会社へ出勤し続けている実業家たちは、何と気の毒なことでしょう!彼らの周囲の者はみなこの喜劇に共演し、会社は彼らの背後で別の誰かによって運営されているのに、彼らの前では、彼らがまだそこで何かに役に立っているかのように振る舞って欺かなければならないのです。

私たちが過去にしがみついていたり、自分勝手に時間を引き延ばそうとするなら、まさにそのことによって私たちはその年代にふさわしい生き方をしていないがゆえに、不毛の老年期を過ごしていることになります。

「行動の時代」に見つけた解答はおざなりで、今はもはや役に立たなくなっているのですから、その問題から今こそ目を離さないで生きるということなのです。それは前方を見つめて、決して後を振り返らないことであり、過去から身を解き放つことです。

向老期にある人間が美しい秋を味わい、さらに発展していくためには、人生の半ばごろの人生観から自由になることが必須条件です。

(ポール・トゥルニエ 『人生の四季』)

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2018年9月 6日 (木)

仕事とヒマ

今朝は、故千代崎秀雄牧師の言葉に教えられました。

仕事のない人生は死に等しい

意義のない仕事は、苦役に等しい

ヒマのない人生は息がつまる

することがないヒマは、心が行きづまる

― どちらも ―

ありすぎても困り、なくても困る

心がけしだいで見つけられる

見つからなくとも、作れば出来る

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2018年9月 5日 (水)

説教を聴く喜び

 (これは昨年、日本バプテスト教会連合・東京地区連合役員研修会で語ったことを、その要旨が辿れる程度に文章化したものです。教会役員を対象に語ったのですが、どなたが読んでくださっても受け止めることができるであろう基本的なことが内容となっています)。
                                                
                                      『説教を聴く喜び』
                                                
                          第一部 「説教とは何か?」 ―神の言葉と説教者―

1)感動していなければ
2)情熱を込めて喜んで
3)聖書の証言 : 「人間の言葉を神の言葉として」聴く(Ⅰテサロニケ2:13)
4)第二スイス信条 : 「神の言葉の説教は神の言葉である」
5)日本バプテスト教会連合 : 「召命」と「教職者規定」
6)人間としての説教者

                          第二部 「説教を聴く喜び!」 ―受け身から参画へ―

1)心を開いていなければ
2)「聞く」と「聴く」の違い
3)聖書の教え : 「キリストのからだ」としての教会(エペソ1:23、4:11~13、Ⅰコリント12:4~30)
4)喜びにあずかる聴き方
 ①心から謙遜に聴く
 ②祈りをもって参画する
 ③説教者に応答する
 ④聴いた説教を生きる
 ⑤牧師の説教環境を整える

*****************************

 今日は、次の二つの観点から語らせて頂きたいと思います。
 第一部は、『説教とは何か?』ということです。そのことを中心にしながら、「説教者の喜び」、「説教者の責任」ということについて共に考えてみたいのです。
 第二部は、『説教を聴く喜び!』ということです。説教を喜びとして聴くことができるようになるには、どうしたら良いのか? 実は、そのためには、「聴き手にも果たすべき責任や役割がある」ということを共に考えてみたい。
 そして、説教者と聴き手のそれぞれが自らの責任や役割を自覚して果たす時に、説教は喜びとして語られ、喜びとして聴かれる、ようになっていくのではないだろうか、ということを共に確認することができればと願っています。

第一部 「説教とは何か?」 ―神の言葉と説教者―

1)感動していなければ

 ずいぶん前のことになりますが、私の神学校時代の出来事です。その出来事は私の生涯の宝となりました。そしてその宝を私は今でも大切に守り続けています。
 私が入学した神学校は、東京都国立市にありました。約120名ほどの神学生が学んでおり、全員が寮生活を送っていたのです。そこでは、火曜日から土曜日まで学びに取り組み、日曜日には教会で奉仕、月曜日は休みという生活を送ります。
 ある日の日曜日のこと、私は教会で奉仕を終えて早く寮に帰って来ました。私が住んでいる寮の部屋の前は、たまたま洗面所になっており、私たちはそこで顔を洗ったり、トイレを使ったり、洗濯したりする訳です。
 4年生のある先輩が教会奉仕から帰って来たのです。そして大声で仲間と話している。彼は特に声の大きい人で、その声が私の部屋のドア越しにがんがん聞こえてくるのです。聞くとも無しに聞いていると、このようなことを仲間に語りかけていたのです。
 「説教は難しいよなあ!」
(神学生も上級生になると、奉仕教会で説教する機会などもあり、彼はそのことについて語っていたのでした)。
 「説教は、難しいよなあ!説教の秘訣は色々あるけど、説教者がまず感動していなかったら、聴き手を感動させることはできないよなあ!」
 私はまだ何も分からない新入りの神学生でした。しかし、大先輩のその言葉に、「そうなんだ!」と深く教えられたのです。その時以来、私は説教とは、そのようにして語られなければならない、と教えられ続けてきました。それは、「説教者自身が、自らが語る説教に感動していなければならない」、ということです。その先輩の何気ない言葉は、今に至るまで私にとって本当に大切な宝となってきたのでした。

                                      2)情熱を込めて喜んで
                                                
 今日は第一部として、「説教とは何か?」というテーマを掲げさせていただきました。しかし、説教とは何かということを定義するということ、論ずることはとても難しいことです。
 ここに一冊の書物を持って来ました。ルードルフ・ボーレン(スイスの実践神学者、専門は説教学)による『説教学』です。1965年、加藤常昭先生がドイツのヴッバタール神学大学に留学された時期、その作成に協力されたそうです。
 二人はまず初めに、「説教とは何か?」という定義から論じ始めようとされたそうです。図書館や、その他の場所を探して膨大な資料を集めたとのこと。しかし、定義が余りにも多すぎて、これこそはと思えるものがない。結局のところ、定義することはできない、という結論に辿り着いたというのです。そこで説教を断片的にと言いましょうか、ある切り口から描写することでもって始めることにされたというのです。
 とても興味深いエピソードですが、それではこの本はどのように書き始められているのでしょうか? 実は「情熱」から論じ始められているのです。この本の第一章には「情熱としての説教」、というタイトルが付けられています。ボーレン先生はこのように語り始めておられます。「自分はスイス人であり、アルプス山脈アイガーのふもとに実家があり、スキーをすること、木を切ることが大好きであり、喜びである。自分は「情熱を込めて喜んで」木を切り、スキーをする」。
 今日集われた皆さんにもそのように夢中になる趣味がおありではないでしょうか。私にとっては魚釣り、子供の頃から大好きです。出かける前から、わくわくして嬉しくてたまらない。魚がエサをつついてウキが反応する。全神経を傾けて集中する。大物を釣り上げれば大満足し、釣り逃がせば残念だったと悔しがる。今でも時々、千葉県の手賀沼にいって魚釣りをしています。
ボーレン先生にとっては、スキーをすること、木を切ることがそれだったのです。
 ところで、説教も同じである、とボーレンは言うのです。つまり、説教者は「情熱を込めて喜んで」説教するのである、と。そのことを語りつつ、けれどもそのことが今日では、希薄になって来ているのではないか、失われているのではないかということも同時に問うているのです。
 そして、更に重要なことを語っておられる。自分は、木を切ることもスキーもあきらめることができる、それらを止めることができる。しかし、説教することは止めることができない。そこには私の命がかかっている。パウロは「福音を述べ伝えないなら、私は災いである」(第Ⅰコリント9:16)と語っている。説教者として召された自分は、この召しを拒否することができない!。これが説教というものである、とボーレンは語っています。説教に関する、とても含蓄に富んだコメントではないでしょうか。

3)聖書の証言 : 「人間の言葉を神の言葉として」聴く(Ⅰテサロニケ2:13)

 さて、それでは「説教とは何か?」ということを私たちなりに考えてみたいと思います。私たちはまず、聖書に耳を傾けるところから始めましょう。「テサロニケ人への手紙」第一、2章13節には、このように記されています。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」。
 初代教会(例えばペテロ、パウロ)の説教に目を注いでみるとはっきりと分かる特徴があります。それは当時における聖書(旧約聖書)を説き明かすということでした。但し、そのことにおいて、ユダヤ教と違うのは旧約聖書をキリストに結びつけて説教したということ。そのような聖書の説き明かしを初代教会のキリスト者たち(ここではテサロニケの人々)は、「神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれた」、というのです。
 語ったのはパウロたち、人間だったのです。しかし、それに耳を傾けた人たちは、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として、聴いたというのです。実はこれが説教なのです。人間が聖書を説き明かして語るのですが、(つまり説教ですが)、それは神の言葉であるというのです。そのことを定義的に言い換えれば、次のように言えるのではないでしょうか。「聖書を説き明かして語られる説教は神の言葉である」と。

4)第二スイス信条 : 「神の言葉の説教は神の言葉である」

 私たちは次にキリスト教会の歴史にも目を留めてみたいと思います。16世紀中頃、ハインリヒ・ブリンガー(ツウィングリに影響を受けたスイスの宗教改革者の一人)によって編纂された第二スイス信条の中に、このような文言があります。「神の言葉の説教は神の言葉である」。
 この第二スイス信条は改革派教会の神学的遺産の一つとして尊重されていますが、説教学的観点から考える時、非常に重要なものであると言うことができると思います。なぜなら、「説教とは何か?」ということが非常に的確に明言されているからです。「神の言葉の説教は神の言葉である!」、と。前半の神の言葉は聖書のこと、後半の神の言葉は説教を意味しています。つまり、聖書は神の言葉であり、その聖書を説き明かして語る説教も、おのずと神の言葉である、という理解です。
 この定義的文言は、パウロがテサロニケ教会の人々に語ったことと重なると思います。パウロの言葉を、少し命題的、定義的に言い直したと言ってもよいでしょう。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」。実は、これが説教なのです。神の言葉である聖書を、人間である説教者が説き明かして語る、それが説教である、ということです。このような聖書的、神学的主張に見られるように、「説教は神の言葉である」とする説教理解は私たちプロテスタント教会のほぼ共通理解とされてきているのです。
 皆さんも、説教は牧師を通して神が語っておられる、とそれぞれの教会で学んでおられることでしょう。そして日曜日になると、神様が今日私に何を語ってくださるのか、と期待して礼拝に集って来られるのではないでしょうか。

5)日本バプテスト教会連合 : 「召命」と「教職者規定」

 それでは、どういう人が説教者として立てられているのかをご一緒に考えてみたいと思います。第一は神によって召されているということ。第二は教会によって承認されているということです。
 第一のことは、神ご自身と説教者自身の関係における問題です。それはきわめて内面的な事柄であり、「召命」と呼ばれる問題ですが、これは外部から客観的に確かめることは困難です。けれども、この神様から召されているという召命感が無ければ牧師は働き続けることはできません。神様からその務めに召されていないのですから。神様から召されてこの務めに就いているという内的確信が無いならば、厳しい困難に直面するような場合、それらを乗り越え、生涯にわたってその務めを全うすることは出来ないことでしょう。
 第二の点、教会によって承認されるということですが、私たち日本バプテスト教会連合には牧師になるための条件を記した次のような規定があります。「福音的神学校を卒業し、教会における一定の試用期間を過ごす。その上で論文を書いて理事会に提出する。そして理事会による面接を受ける。それらに合格することで、初めて正式に牧師として認められる」。これらの要件を満たして、日本バプテスト教会連合の正式な教職者になることが出来るのです。
 これら第一と第二の必要条件を満たして、説教者は立てられるのです。すなわち、神ご自身の承認と、教会の承認を得ることが必要なのです。皆さんの教会における牧師たちは、このように神と教会の試験に合格して、その聖なる職務に就いているのです。皆さんの教会の牧師に対して、このような基本理解をもっていただきたいと思います。

                                      6)人間としての説教者
                                                
 以上の基本理解に加え、今日はもう少し異なった観点から、説教者とはどういう存在であるのかを考えてみたい思います。19世紀、有名な英国の説教者、C.H.スポルジョンは、説教者についてこのように語っています。
 「なぜ光の子供がしばしば深い闇の中を歩むというようなことになるのか。なぜ暁の光を告げる者が、時にまことに深い闇の中に居るようなことになるのか。
 我々が時に憂鬱な思いに沈むのは必然的なことである。優れた人間は、この世において悩みを約束されているのである。しかも牧師は、他の人々よりも多くそうなのである。
 天使が福音を宣べ伝える者とされることもあり得たかもしれない。しかしながら、天使の天的な属性は愚かな者に対する同情を持つには、ふさわしくなかったのである。大理石で作られたような人間も形造られたかもしれないが、その無感覚な本性は我々の本性を皮肉り、我々の欠乏をせせら笑うことになったであろう。
 人間、しかも人間の苦悩を余儀なくされるような人間、これを全知なる神はその恵みの器としてお選びになったのである。それ故に、この涙があり、この困惑があり、そして打ち捨てられる思いがあるのである」。
 どういう存在が牧師・説教者の務めを担っているのか? 「天使」ではなく「人間」が牧師に召されていると言うのです。天使は大理石のように血肉を持たずパーフェクトであるので、聴き手の悩みや苦しみを理解することができない。しかし説教者は人間である。彼は聴き手の悩みや苦しみを理解することができる。なぜなら、説教者自身がそのような悩みや苦しみの中に生きることを余儀なくされている聴き手と同じ悩み多き人間だからである。聴き手を理解できるため、聴き手に親身に寄り添うことのできるため、天使ではなく人間を神は説教者として立てられた、と言うのです。
 何と深い説教者理解であることでしょう。説教者は決して、天使ではない、聴き手と同じように血肉をもった生身の人間であるということを、説教者も聴き手も心に刻みたいと思います。

 「説教とは何か?」ということを共に考えて来ましたが、説教とは神の言葉(聖書)を説教者が説き明かして語ること、であると学びました。説教者は一定の資格を認められてその務めに就いています。しかし、そこで語られる説教は、天使ではなく、罪ある人間、弱さを抱えている人間が語っているということです。説教者は聴き手に一歩先立って御言葉に聴くことを体験する訳ですが、そこにおいて与えられた御言葉体験を、「感動しながら」、「情熱を込め喜んで」伝えようとするのです。

第二部 「説教を聴く喜び!」 ―受け身から参画へ―

1)心を開いていなければ

 私の神学校時代、このような体験をさせられました。1年生、2年生、3年生、4年生となり、説教を聴くことが段々つまらなくなってきたのです。説教者には大変申し訳なかったですが、真剣に、熱心に聴く心や姿勢は失われました。けれども私の人生に大変深刻な問題が発生し、悩み苦しむこととなりました。そのような中で、私は神様の前に悔い改め、もう一度信仰の原点に立ち戻ることが出来ました。
 次の日にチャペルに出て驚きました。すべてが輝いているのです。チャペルのピアノもイスも、そこに集まる先生方や学生たちも。そして何よりも驚いたのは、これまでと違い、説教が私の心の奥底まで届いてきたということでした。その時に、私は深い気づきを与えられました、深く教えられました。説教が聴けない、面白くないというのは、説教者の問題ではなく、聴き手の問題でもある、と。説教を喜んで聴くことができるかどうかということは、その半分は聴き手にも責任があるということです。かつて私が学ばされたそのことは、今でも全く同じであると私は考えています。

2)「聞く」と「聴く」の違い

 東京地区連合、新年合同礼拝が、今年の1月15日、練馬の連合センターで開催されました。私はたまたま事情があり、出席することができず申し訳ありませんでした。地区連合委員長のNさんが、その際に今日の研修会のアピールをされたことを、後で聞きました。
 委員長はこのような趣旨のことを言われたそうです。「今回の研修会のテーマは『説教を聴く喜びである』。しかし、印刷されたチラシの文字に藤原牧師からクレームをつけられた。「聞く」という漢字が違う、「聴く」という漢字に変えて欲しい、と」。
 実を言いますと、教育部担当で、チラシを作ってくださったK先生に対して、そのように漢字を変更するように、私としては「クレーム」ではなく、丁重にお願いしたつもりでした。いずれにしましても、Nさんは、その漢字の違いの意味するところについて、相当詳しくコメントしてくださったということですので、私としましても感謝しています。
 ここでは、あらためてそのことを確認しておきたいと思います。「聞く」は、自然に音が耳に入ってくる状態。それは受け身ということです。「聴く」は、受け身ではありますが、そこに意識をもって積極的、能動的に耳を傾ける、ということです。
 英語で言うならば、「hear」と「listen」の違いでしょうか。「hear」は、自然に音が耳に入ってくること。たとえば、I heared his voice.(私は彼の声を聞いた)。「listen」は、能動的に心を傾けて聴く状態。たとえば、I listened to his voice.(私は彼の声に耳を傾けた)。双方には違いがあるのです。説教は、後者のような姿勢で聴かれる時に、より多くの喜びを私たちにもたらすのです。
 つまり、説教は説教者独りではなく、聴き手も参与していくものであるということです。ですから、説教を門構えの「聞く」ではな、耳偏の「聴く」という姿勢で聴いて頂きたい。「hear」ではなく、「listen」して頂きたいのです。

3)聖書の教え : 「キリストのからだ」としての教会(エペソ1:23、4:11~13、Ⅰコリント12:4~30)

 今、共に聖書に耳を傾けたいと思います。「エペソ人への手紙」第1章23節には、このように語られています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」。
 さらに続いてこのように語られています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(4:11~13)。
 パウロは語っています、「教会はキリストのからだ」である、と。そして体には、手があり、足があり、目があり、耳があるように、それぞれ異なった働きがある、と。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです」、と。これが教会なのである!と。
 パウロが「教会はキリストのからだ」であるということについてもっと詳しく語っているのは「コリント人への手紙・第Ⅰ」12章です。「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません」(12:14~16)。
「そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません」(12:21 )。
「 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです」(12:27~28)。
 私たちは、パウロの教えに基づいて自らの教会のことを考えるということが大切です。説教者もキリストの体の一部分としてみなされるべきです。つまり、説教を喜んで聴けるかどうかは、牧師一人の責任ではない、ということです。教会全体が、その責任を負っている。皆さんもその責任の一端を担っておられる、ということです。
 「牧師よ、あなたは目としての働きを十分にしていない、ちゃんと見て下さい」。そのように耳が言ったり、手が言ったり、足が言ったりしたらどうでしょう?それは健全に機能している状態では無いと言わざるを得ません。目に対して、耳も、手も、足も、協力する必要がある。目にゴミが入れば、手がそのゴミを取り除いてくれなければ、目だけでは問題処理できません。目がどこかに行きたくても、目だけでは行くことは出来ず、足の助けを必要とします。説教者もそのように独りだけでは何をすることもできないのです。パウロがここで示唆していることは、そういうことではないでしょうか。

4)喜びにあずかる聴き方

 説教を喜んで聴くことができるようになるための提案を5つほどさせていただきたいと思います。
 ①心から謙遜に聴く
 加藤常昭先生は「説教の聞き方」という文章の中でこのように書いておられます。「説教は私たちに、人間の思想ではなく、神の言葉を語り聴かせます。その意味では、私たちは説教に対して心から謙遜でありたいと思います。私たちに対する、今日、今、ここにおける神の語りかけを聴くのですから、私たちはその中から気に入った言葉だけを聴いておいて、都合の悪い言葉を捨てる訳にはいきません。説教者が時に下手な説教をしても、それを通して神が語りかけ、重大なことを教えてくださるかもしれないのです。それを聴き取るだけの備えは、いつも必要だと思われます」。
 本当にその通りではないでしょうか。説教は人間の思想が語られるのではなく、神の言葉が語られるのです。説教者は人間ですが、実はそこにおいて、神ご自身が語っておられる!。そのような説教理解が、私たちはどこまでできているでしょうか?神が語っておられるということが本当に理解出来たならば、私たちの聴く姿勢もまた変わっていくのではないでしょうか。

 ②祈りをもって参画する
 「自分のために祈る」、「説教者のために祈る」……、そのような祈りに取り囲まれて説教壇に立つことのできる説教者は幸せである、そのような教会は祝福されていると思います。私たちはまず、自分のために祈りたいと思います。
 主イエスは、「種まきのたとえ」を語られました。御言葉の種が蒔かれたのですが、最初の種は道ばたに落ちたために鳥に食べられてしまいました。第二の種は、土の薄い岩地に落ちため、芽が出始めたのですが、太陽の熱で枯れてしまいました。第三の種は、茨の中に落ちたため、茨にふさがれて育つことができなかった。第四の種は、良い地に落ちたため、芽生え、育って30倍、60倍、100倍の実を結んだ。
 「主よ私の道ばた、石地、茨の地のような心を、砕いて、耕してくださり、良い地としてください。私に今日の説教を理解させてくださり、受け止めることができるようにさせてください」。私たちはまず、自らのために祈りたい。
 そして、説教者のために祈りたいと思います。数年前の忘れがたい体験ですが、北海道札幌の教会で特別集会の奉仕に招かれたことがあります。多くの人が集まる集会であり、私のような者で大丈夫だろうか、という不安がありました。そこで市川北教会の皆さんに「祈っていてくださいね」と頼んで出かけました。特に水曜日の祈祷会では、私と家内のために祈ってくださり、派遣の讃美歌を歌って送り出してくださった。
 何回かにわたる集会で語らせていただきましたが、実に不思議な感覚を持ちました。自分が思った以上に良く語ることができた、失敗がなかったという感触が与えられました。どうしてなんだろうと、考えましたが、すぐに分かりました。市川北教会の皆さんが祈ってくださっているということでした。そのような体験の連続が私の説教者人生でした。
 特別の機会のみではなく、毎週の日曜日、そのように祈られて説教壇に立つことのできる説教者は幸せでしょう。そして、そのように説教者のために祈り続ける教会は祝福されるであろうと思います。

 ③説教者に応答する
 「良い聴き手は、良い説教者をつくる」ということが言われまますが、私たちは良い聴き手でありたいと思います。まず礼拝を休まないようにすること、そして遅刻しないで出席する、ということは基本です。そのような姿勢で、説教に耳を傾けてくれる人々が多ければ多いほど、説教者は励まされます。礼拝に遅れてくる人、説教の途中に平気で入って来る人がいると、説教者は自分とその説教がその程度にしか評価されていないのかなあと思わされ、気持ちは沈みます。
 皆さんに、ぜひお願いしたいことは、説教の感想を説教者に伝えて欲しいということです。心を込めて食事を準備しても、食べた人が、おいしかったとか、そうではなかったかということを一言も伝えなかったならば、作った人はがっかりしてしまいます。説教も同じです。説教者は必死で準備するのですから、感想を聞きたいのです。「先生、先生は私のことをよく知っておられますね。今日は私に向かって語ってくださったのですか」。そのような感想を聞くと嬉しいですね。「いいえ、私はあなたのことをあなたが思うほどには詳しく知ることはできません。きっと神様ご自身があなたに向かって語ってくださったのでしょう」。そのような会話をしばしば繰り返し体験させられてきました。
 そのような言葉を聞くと、牧師は、また頑張ろうという思いにさせられていくのです。聴き手の皆さんのレスポンスによって、説教者は励まされる、ということです。ぜひ、牧師に何らかの言葉をかけて欲しいと思います。

 ④聴いた説教を生きる
 「聴いた説教を生きる」ということこそは、何よりも大切なことです。そのような変化が聴き手に起きる時に、説教者は大いに喜ぶのです。いいえ、それは何よりも神様ご自身が喜んでくださることです。加藤先生の次の言葉は、説明する必要がないほどにそのことを明確に語っています。
 「説教をよく聴くということは、説教をよく生きるということです。説教を聴いたひとりひとりが、そこで聴いた福音の真理を身につけて日常の生活の中へ出ていくことです。そして積極的に人々との対話の中で、この福音に生きる喜びを語り、隣人を愛し、慰めてあげるようにします。ひとりびとりが福音の証し人、言ってみれば生活の中での説教者になることです。
 説教は、それが聴かれたその場でどれだけの感動を与えたかというようなことでは計ることができないと思います。むしろ聴衆の心の中でどのように実を結び、どれだけその人生の力となるかによると思います。そして、説教の良い聴き方をする人は、まさにこの点で実を結ぶことができる人なのでなかろうかと思います」。

 ⑤牧師の説教環境を整える
 私たちは牧師に対して、より良く説教が出来る環境を整えたいと思います。「学校の教師と教会の牧師との違い」を皆さんはご存知でしょうか?私は今はお茶の水聖書学院で教えています。そして、市川北教会では長年にわたり、牧師、説教者として奉仕してきました。そこで実感することは、こういうことです。お茶の水聖書学院の学生は卒業してくれる、しかし教会では信徒は卒業してくれない、ということです。
 一方は、数年の限られたつき合いです。しかし、もう一方は延々と続く生涯にわたるつき合いです。お茶の水聖書学院で教えていると、学生は入れ代わる訳ですから、同じテキストを使っていても、学生にとっては初めてのこと、新鮮なものとして映るわけです。しかし、教会では、そういう訳には行きません。信徒の方々は卒業してくれませんから。「ああ、先生はまた同じ説教をしている」、と言うようなことになる訳です。
 スポルジョンは語っています。「あなたが語る今日の説教は、あなたが語ったかつての説教をはるかに凌駕していなければならない」と。つまり、説教者が成長していなければ、たちまちあきられてしまうということです。賞味期限が切れてしまうのです。
 どうすれば、良いのでしょう? 説教者自身が成長する以外にありません。そうすれば、以前をはるかに凌駕することになるのです。信徒としても、「3年前にこの聖書テキストから説教を聴いたけれども、今日はまたはるかに深く教えられたなあ。私たちの教会の先生は成長しておられるなあ」、となるわけです。
 皆さん、ぜひ牧師がそのようになるための環境を整えていただきたい。私の場合、市川北教会では毎月、図書費、研究費を出していただきました。それで本を買うことができました。それでセミナーに出席することもできました。それによって支えられてきました。本を読み、役立つセミナーや集会に参加する。そのようにして教会に助けられ、学びを重ねて来ることができました。
 毎月5千円ならば年間で6万円になります。毎月2万円ならば年間で24万円になります。教会の経済力によって額は異なるかもしれません。とにかく牧師をそのような方面からも支えていただきたい。そのようにして教会から助けられ、絶えず進歩成長していく牧師の説教は古臭くなることがないと思うのですが、いかがでしょうか。皆さんの教会において、牧師に対するそのような環境を少しでも良く整えていただけませんでしょうか。

                                            最後に

 今日は「説教を聴く喜び」というテーマで語らせていただきました。まず何よりも、説教者は自らが「感動し」「情熱を込めて喜んで」「神の言葉を取り次ぐ」のです。そして、聴き手は「聴く備えをもって」臨み、「喜び」をもって説教を受け止めるのです。私たちがそのような説教者であり、聴き手であるならば幸いであると思います。
 しかし、そのような理想が私たちの教会にただちに実現するとは限りません。一朝一夕には行かないことでしょう。そのような地点へと辿り着いていくためには、今日学んだように、説教者は説教者としての深い自覚をもち、絶えず自らを向上させていかなければなりません。それだけではなく、聴き手もまた自らの役割を深く自覚し、聴き手としての役割を果たしていかなければなりません。その意味では、説教が良くなるには、喜びをもって聴くことができるには、説教者と聴き手の双方がそれぞれの役割を真剣に果たしていかなければなりません。責任は説教者にのみあるのでもない、聴き手のみにあるのでもない、双方にあるのです。
 皆さんは、それぞれの教会において役員としての役割を担っておられると思います。その役割を、ご自分の教会に帰ってからきちんと果たしていただきたいのです。つまり、今日ここで学ばれたことを自分一人の中にしまい込んで、それで終わりとしないでいただきたい。教会に持ち帰って報告してくださり、教会の方々と分かち合っていただきたい。もし、一度にすべてを語り尽くせなくても、折ある毎に、あるいは個人的な交わりの機会などでも、今日の収穫を分かち合って、あなたの教会を良くしていく努力を傾け続けていただきたい。そのことを、皆さまに心からお願いして、終わりとさせていただきます。

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