◎ブログ総目次

 

●「説教論」
 ●『キリスト教説教入門』(テキスト)
 ●『キリスト教説教入門』(音声)
 ●『キリスト教説教入門』講義(動画)
 ●「ピリピ書」説教(原稿)
 ●「ピリピ書」説教(音声)
 ● 主日礼拝説教録画 
  ★ルカ24:32「キリストに心燃やされて」イースター2021/4/4東京中央バプテスト教会
  ★ロマ7:15-25「引き裂かれた私の救い」2021/2/21東京中央バプテスト教会
  ★ロマ6:15-23「愛による奴隷」2021/1/17東京中央バプテスト教会
  ★ロマ3:21-30「行いの原理か信仰の原理か?」2020/3/22小竹向原教会
 ○「新約聖書における説教とは?」
  「宣べ伝える」
  「福音を語る」
  「教える」
  「慰め励ます」
  「証言する」
 ○「説教者の基本的心得とは?」
  神に聞く者となろう!
  聞き手を理解しよう!
  愛をもって語ろう!
  心燃やされて語ろう!
  分かりやすく語ろう!
  神に栄光を帰そう!
 ○「説教の3タイプ」(構造、特徴、注意点)
  「テキスト説教」
  「講解説教」
  「主題説教」
 ○「状況に応じた説教を語ろう」
  礼拝説教
  伝道説教
  教会学校説教
 ○「説教論考」
  信徒説教者の要件
  証言の響きを取り戻そう!
  教師から証人へ
  今ここで語られるべき説教を求めて
  説教における過去と現在のキリスト
  説教者を襲う困難
  説教を聴く喜び
  私の説教準備 
 ○「説教者ルターとカルヴァン」
  マルチン・ルターを訪ねて
  ジャン・力ルヴァンを訪ねて
 ○「著名な説教者の言葉の抜粋」
  『説教学入門』 C.H.スポルジョン
  『説教論』 加藤常昭
  『神の言葉の神学の説教学』 カール・バルト
 ○「拙著紹介」
  『キリスト教説教入門』
  『まことの説教を求めて』
 ○「私の説教遍歴」
  No.1 父の説教とN長老の説教
  No.2 子供には耐えられない説教
  No.3 散弾銃的説教かライフル銃的説教か?
  No.4 牧師となる決心をした私
  No.5 神学校でのカルチャーショック
  No.6 生涯の教訓となった体験
  No.7 キリストを説教することを求めて
  No.8 キリスト論的説教のジレンマ
  No.9 祈られていた私
  No.10 伝道的説教と牧会的説教
  No.11 さらに学ぶために
  No.12 唯一無比なるお方!
  No.13 最後に帰るのですよ
  No.14 N長老との再会と別れ
  No.15 開拓伝道、説教学、説教演習
  No.16 うぬぼれと花粉症
  No.17 コペルニクス的転回
  No.18 『キリスト教説教入門』の出版
  No.19 説教塾の門をたたく
  No.20 加藤常昭先生との出会い
  No.21 『まことの説教を求めて』の出版
  No.22 最近の私
 ○「その他」
  説教、ああ、その難しさ!
  神に助けられて説教する喜び!
  説教を聴いて気になったこと
  大先輩説教者にインタビュー(動画1分)
  大先輩説教者にレスポンス(動画4分)
  私たち牧師のため祈ってください!
  説教の聴き手をも考慮して語ろう
  聴いて物足りない説教
  愛をもって語っているか?
  感動していなければ
  思い違いでガックリ
  説教者の態度
  無くて七くせ
 ○「最近の説教」
  「引き裂かれた私の救い」2021/02/21(動画32分)
  「愛による奴隷」2021/01/17(動画32分)
  「行いの原理か信仰の原理か?」 2020/03/22受難節(テキスト&動画22分)
  「信仰と律法」2020/06/21(テキスト)
  「試練に耐える」2020/06/07(テキスト)
  「目を上げて」 2020/04/12イースター(テキスト)

●「地方伝道」
  われ、ここに立つ
  Tご夫妻との出会いがなければ
  アピール:全教会の課題としての地方伝道
  地方伝道の現状と打開策
  北海道伝道旅行

●「家族伝道」
  クリスチャンホームに生まれて
  クリスチャンホームの子供たちの苦悩

●「女性」
  教会における女性教職者論をめぐって
  マルタとマリヤの霊性
  安息日と女性
  がんばれ牧師夫人

●「本を読む」(書評他)
  ④三浦文学における人間論と神論
  ③三浦綾子さんと短歌
  ②「氷点」と「笑点」との関係
  ①久しぶりに三浦綾子文学を
  ★7日間ブックカバーチャレンジ
  老人と権力本能
  エディプスコンプレックスと父親殺し
  私の読書の楽しみ方
  本を読もう!
  図書館を利用しよう!
  文章を書こう!
  『説教学入門』チャールズ・スポルジョン
  『告白』 アウグスチヌス
  『老いの意味』ポール・トゥルニエ
  『教会に生きる喜び』 朝岡勝
  『驚くべき希望』 N.T.ライト
  『エフェソ書を読む』 石田学
  『祈る人々』 藤本満
  『キリスト教説教入門』 藤原導夫
  『まことの説教を求めて』 藤原導夫(朝岡勝評)
  『養生訓』 貝原益軒
  『眠られぬ夜のために』 カール・ヒルティ
  『聖書のにんげん模様』 堀肇
  『慰めのコイノーニア』 加藤常昭
  『伝える力』 池上彰
  『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎
  「パウロの労苦」を思う 新約聖書
  老人と若者の確執 ポール・トゥルニエ
  老人の頑張り ポール・トゥルニエ

●「愛読書の抜粋」
  『幸福論』 カール・ヒルティ
  『眠られぬ夜のために』 カール・ヒルティ
  『説教学入門』 C.H.スポルジョン
  『説教論』 加藤常昭
  『神の言葉の神学の説教学』 カール・バルト
  『老いの意味』 ポール・トゥルニエ
  『人間の気質と信仰』 オーレ・ハレスビー

●「先人たちの知恵の言葉」
  人生と仕事
  働くことと休むこと
  加害者と被害者
  思索のわきまえ
  達し得たところに従って
  人生の意味
  下山の思想
  待ちつつ急ぎつつ
  空気の持つ力
  慰めの子
  眠りを愛するな
  おだやかな心で
  へりくだって生きる
  神を知り人を知る
  非難攻撃されたら
  人望の有無
  人気か人望か?
  人間をとる漁師
  立派すぎないほうがいい
  人をけなすな
  神と悪魔の間
  世間とは?
  明日を心配しない
  待ち望むということ
  強いられた道の祝福
  人間に与えられたトゲ
  まことの祈り
  勇気と謙遜
  この世の小さき者
  解釈しないやさしさ
  成熟する老人
  老いの意味
  悩む力
  良い行いにあきるな!
  ヴィジョンにひそむ哲学
  何者でもない私たち
  心が悲しく沈み込んでいる時…

●「考える」
  ヒルティやトゥルニエが求めたもの
  二元論の克服
  クリスマス・シーズンに思う
  神学的思索の重要性
  神学的思索の重要性
  多すぎる日本語聖書
  主イエスはウソをつかれたのか?
  ダビデはなぜ処刑されなかったのか?
  「ワーシップ」か「エンターテインメント」か?
  「パウロの労苦」を思う 
  仕事とヒマ
  神の恵みと人の信仰
  神の主権と人間の自由意志

●「忘れ得ぬ人々」
  父の思い出
  母の思い出
  与え尽くす校長先生
  前科3犯と前科8犯の男たち
  N長老の思い出
  アドヴァイスをくれた老牧師
  Tご夫妻との出会いがなければ
  ドナルド・E・ホーク先生
  あるアメリカ人牧師
  
●「エピソード」
  思いがけぬ親切
  アメリカでの思い出
  老牧師と詩篇23篇
  わが幼少年時代 シュバイツアー
  席譲ってくれた女性の「うそ」 朝日新聞
  陰で悪口を言うのはやめよう
  名前を呼ばれる嬉しさ
  老女のゴミ拾い
  キリストのえこひいき?
  うぬぼれと花粉症
  感動していなければ
  被害者であり加害者でもある私
  夫婦げんかで困ったら
  批判の言葉と陸にあがった魚 
  最後に帰る
  「あいさつ」をめぐって大激論
  愛はウンチを手でつかむ 朝日新聞
  古老のアドヴァイス
  無くて七くせ
  老人と少女
  奇跡のオルガン

●「聖書ショートメッセージ」
  野の花を見なさい!
  老牧師と詩篇23篇
  春のおとずれ
  試練に耐える
  明日を誇るな
  ゆるすこころ
  自分を知ろう!
  受けるより与える幸い
  忘れないで!
  人生の嵐
  幸いな「ジレンマ」
  苦悩の中で聞く神の言葉
  共に喜び共に泣きたい
  あなたは石で打てるのか?
  自分らしく歩もう!
  とにかく祈ってみよう!
  人生の重荷をゆだねよう!
  神が万物を創造された
  人は何で生きるか?

●「旅をする」
  ★日本各地ライブカメラ映像(画像をクリックすると今の現地映像が現れます!)
  ★旅する喜び 映像(手賀沼、ドイツ、スイス、イスラエル、イタリヤ、上五島、他)   
  パウロの足跡をたどる(1)ピリピ
  パウロの足跡をたどる(2)アテネ、コリント
  パウロの足跡をたどる(3)エペソ
  アッシジを訪ねて
  マルチン・ルターを訪ねて
  ジャン・力ルヴァンを訪ねて
  北海道伝道旅行

●「その他」
  免許証自主返納
  J.M.さんの名訳
  お茶の水聖書学院・回顧と展望
  老人と権力本能
  老境にさしかかった私
  「聴くドラマ聖書」
  私の大失態
  なかなか直らない悪いくせ
  思い違いでガックリ

●「動画」
  礼拝説教「引き裂かれた私の救い」2021/02/21コロナ禍(33分)
  礼拝説教「愛による奴隷」2021/01/17 コロナ禍(32分)
  礼拝説教「行いの原理か信仰の原理か?」2020/03/22 コロナ禍(22分)
  大先輩説教者にインタビュー(1分)
  大先輩説教者にレスポンス(4分)
  詩篇119篇を祈る(40秒)
  カール・ヒルティの言葉(23秒)
  ポール・トゥルニエの言葉(1分)
  季節の花いろいろ(4分)
  江戸川散策(1分30秒)
  大柏川のユリカモメ(1分)
  手賀沼の夏そして冬(3分)
  手賀沼のユリカモメ(2分)
  手賀沼の白鳥(1分)
  手賀沼の元気なコイたち(2分)


  

 

 

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思いがけぬ親切

今日は腰の治療のため街の整体院へと出かけました。

帰りのバス停で並んでいた時のこと。
すぐ前に立つ若い女性が声をかけてくれました。

「よろしかったら、こちらにどうぞ!」

私は訳が分からなく「え~、どうしてですか?」、と。

「そちらは陰がないので、こちらの陰のある方へどうぞ!」

「ああ、そうですか、それはどうもありがとうございます」と応えて私は場所を代わってもらいました。

うだるような暑さの中で私は陰に守られ、その方はかんかん照りの中に立たれました。
私の中では老人に見られたかというショックとその方の親切を嬉しいと思う気持ちがないまぜになりました。しかしすぐに、親切にされてありがたいなぁ、という感謝の思いの方が勝ってきました。

ほどなくバスがやって来ましたが、「この方に幸あれ!」と心の中で祈りながら私はバスに乗り込みました。

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④ 三浦文学における人間論と神論

いささか神学的視点から言えば、文学とは「人間論」の展開でありましょう。なぜなら文学が扱うのは人間の物語が中心となるからです。

これに比べ神学は神とその働きを考究するゆえに、基本的にそれは「神論」の展開にあると言えましょう。
ただキリスト教神学の場合は、基本的に「聖書」を読んで解釈し、それらを論理的に筋道立てて語り示そうとするところにその特質があります。
ところでよく考えてみれば、神学には「神論」のみならず「人間論」も当然含まれてきます。

人間論を欠いた神論は抽象的なものとなりかねませんし、それでは「聖書の神」を真に論じることとはならないからです。

文学は人間とその人生を物語るところに特徴があると言いましたが、中には人間のみならず、同時にそこに神の存在とその働きをも描き出そうとするような作品もあります。

三浦綾子さんの著作はまさにそのような性格を帯びています。

その意味からすれば、三浦文学は「人間論に神論およびキリスト論が深く入り込んでいる、交わっている」のがその際立った特徴であると思われます。
つまり「人間論」と「神論」「キリスト論」とが混在、混合しているのです。そこに三浦文学のユニークな深みと味わいがあると思われます。

三浦さんご自身はこのように語っておられます。
「私にも文章はかくあるべきだというものはあります。そしてそれは、やはり聖書に根ざしております。
作品のテーマはそれぞれに違いますが、生まれる素地になっているものはキリスト者としての思想です。私は信者だから小説を書けるし、また書いているのであって、単に自分の考えを書いているのではないのです」。

このように、三浦さんの作品の素地には常に聖書の思想があり、その聖書のメッセージを文学作品を通して物語ろうとしておられるのです。

それは基本的には文学的営みではあるのですが、視野を深めれば、同時に神学的営みでもあったのです。

神学もまた、その学固有の方法においては文学とは異なりますが、聖書の真理を告白し伝えようと奉仕するという(三浦さんの場合の意図と)同じ根をもっているからです。

以上のような点を考慮して言うならば、「相対的に」神学はより「神を」論じ、文学はより「人間を」物語ろうとするものとも言えましょう。
三浦さんは一人のキリスト者として、文章を書くという神から与えられた賜物を活かして、文学分野で神と人とに仕えられたのでした。

「三浦さんの本を読んで信仰に導かれました、教会の門を叩きました」という証言に私はこれまで数多く出会ってきました。
ここに三浦さんが蒔かれた種が多くの実を結んでいるという現実を鮮やかに見せられているように思います。

ちなみに、北海道和寒にある塩狩峠には三浦さんがかつて雑貨店をしておられた旧宅が移築され、記念館として用いられています。
その玄関わきには綾子さんがぜひにと願われた聖書の言葉入りの看板が立てられています。

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん。もし死なば多くの果を結ぶべし」 (ヨハネ伝12章24節)

 

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③ 三浦綾子さんと短歌

ついにあの短歌が見つかりました!

前回のFB(4月20日)で私がかつて読んだ三浦綾子さんの文章にあった短歌がどうしても見つからない旨の投稿をしました。
自力では無理であると思い「三浦綾子読書会」に問いあわせたところ、T氏が親切に教えてくださいました。
これは、三浦綾子さんの恋人であり同病者でもあった前川正氏の短歌であるということ。そして『道ありき』の第20章、『生命に刻まれた愛のかたみ』「昭和27年」に収められているとのことでした。探していた宝が見つかったように嬉しかったです。その短歌は次の通りです。

徴兵反対の掲示囲める学生等サフランの鉢をかばひ持つ一人あり

この短歌についての綾子さんのコメントです。
「私には、徴兵に反対する若い学生たちの、清純な真剣な青春が、サフランの花を傷つけまいとかばっている学生の姿に象徴されているような気がしてならない。今でも私は、この歌を、青春の日のすぐれた歌としてあげることをためらわない」。

この短歌に込められているような心、生き方を忘れず失わないで歩みたいとあらためて思わされました。

●4月20日FB投稿の文章
今朝の散歩で出会った木々や花々です!
学園紛争のただなかで一人の学生が鉢植えの花を走りながら抱いてかばっている姿を描いた三浦綾子さんの文章を読んだ記憶があります。
若い頃にはさっと読み過ごしましたが、今はその青年にも少し共感できるようになってきている自分に気づかされています。
もしご存知の方は、その本の題名と頁、その短歌?を教えていただけませんでしょうか。

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②「氷点」と「笑点」との関係

毎週日曜日午後5:30から日本テレビで放映される「笑点」を私と妻は楽しみに観ています。最近ですがこの「笑点」と「氷点」との関係を知りました。

三浦綾子の「氷点」は朝日新聞の1千万円懸賞に当選して1964年から一年間新聞に連載されるというかたちで世に出た作品です。
それが単行本化されると大ベストセラーとなり、映画化され、何度もテレビドラマ化され、多くの人々に知られ愛されるところとなりました。

一方「笑点」は落語家たちが出演する演芸バラエティ番組であり、その旧番組を引き継ぐかたちで1966年に始まったのですが、当時一大ブームとなっていた氷点をもじって「笑点」と命名されたとのことです。

この番組に綾子さんは出演することを乞われたのですが断ったとのこと。しかし綾子さんもご主人の光世さんもこの番組が大好きでいつも視聴しておられたそうです。
出演者であった桂歌丸さんと三遊亭小遊三さんが落語を演じるために旭川市に来られた時は二人で駆けつけて耳を傾け、親交を深められたとのことです。
このような事実を私はこれまで知りませんでしたが、これから笑点を視聴する時には三浦綾子さんをも思い浮かべることになるでしょう。
そして三浦文学が日本社会に与えた大きな影響をも改めて覚えさせられる機会ともなるであろうと思います。

ちなみに口に絵筆をくわえて絵を描かれる星野富弘さんは三浦さんの『塩狩峠』にも影響を受け信仰に導かれたとのこと、元プロ野球選手の松井秀喜さんは自分にとって大切な書物の二冊に夏目漱石の『こころ』と三浦さんの『塩狩峠』を挙げておられることも知りました。

●上記情報についてWebで確認できるソースを記しておきます。更なる内容につ
いては書物や講演から私が得たものです。
(1)「笑点」は「氷点」をもじったもの (「概要」をご覧ください)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E7%82%B9
(2)星野富弘さんと『塩狩峠』
https://www.hyouten.com/none/4387.html
(3)松井秀喜さんと『塩狩峠』(長谷川与志充・三浦綾子読書会顧問の講演がスタートして4分のところ)
https://www.youtube.com/watch?v=-bpkY4Avdyk

 

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① 久しぶりに三浦綾子文学を

今年7月3日の豪雨がもたらした静岡県熱海市の土石流で、私はかつての教会学校の教え子を失いました。

そして今、私は三浦綾子さんの『泥流地帯』を読んでいます。大正15年に起きた十勝岳の爆発による土石流に呑み込まれた上富良野の人々の人生を描いた小説です。
なぜ私たち人間は思いがけない苦難に遭遇するのか、なぜこの世には正直者が馬鹿を見、そうでもない人たちが幅をきかせるような現実が存在するのか、人生の幸不幸は何によって計られるのか。そのような問いを読む者に投げかける作品です。
そのような深い問いに対してどう応えようとするのか。

一人の牧師として、人間として、そのような現実の中で歩む人々(自分をも含め)のことを思い、常に心に留めて忘れないことを改めて指摘され、問われたように思います。

三浦文学は妻と二人で長く読み親しんできましたが、しばらく遠ざかっていました。それらを今、読み直し始めていますが、かつて読んだ時には思い至らなかったようなことが、今、新しく見えるようになり、感じるようになって来ているという体験をもさせられています。
時の経過、経験の積み重ねが、その本から受け取るものを、かつてとはまた異なるものとして差し出してくれていることを思わされます。

「この本は一度読んだからそれでいい」とは言えないのですね。

 

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説教、ああ、その難しさ!

明日の主日礼拝説教の準備に取り組んでいますが満足できません。


聖書テキストが語る信仰証言、それを今、ここでのコンテキストにおける新しい信仰証言として語り直そうとするのが説教である、と私は理解しています。
その場合、「かつて、そこにおける」聖書の信仰証言と「いま、ここにおける」信仰証言とが一つのように重なり合っていくことが求められます。
しかし、それが「ズレ」てしまうのです。
すると語る説教者にもそれを聴く聴衆にも、何となくすっきりしない違和感を呼び起こします。その違和感を生じさせることなく説教を準備し語ることが説教者には常に求められているのだと思います。


しかし何年が過ぎても、そのズレを無くして語るということの難しさにぶつかり続けています。
聖書テキストが語ろうとしている本来のメッセージと自分がそれに基づいて語ろうとしている今、ここにおける、それを語り直すメッセージとの間にズレが起きないようにと一生懸命に取り組むのですが……。


神の召しと赦し、耳を傾けてくださる方々の寛容がなければ、とても語り続けることには耐えられない業、それが説教であると今日も改めてつくづく思わされています。


聖霊なる神よ、お助けください!

 

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神に助けられて説教する喜び!

明日はロマ書9章後半から「信仰か、行ないか?」と題して説教する予定です。けれどもその説教準備が行き詰まってしまい、どうしても先に進めません。


そのような時にはしばしば散歩に出かけます。今日もそのようにして「神様、助けてください!」と祈りながら出かけました。通りに咲く花などを眺めながら歩いていると、突然に行き詰まっていた部分を解決するアイデアが与えられたのです。


急いで帰宅し、その喜びを持って再び説教準備に取り組んでいます。自らの無力を知らされ、神に助けを求める時に神は助けてくださることをまた新しく学び直しました。


明日もこの喜びをもって説教するつもりです。

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イースター礼拝説教 「キリストに心燃やされて」

イースター礼拝説教 ルカ24:32 「キリストに心燃やされて」

2021年4月4日(日) 東京中央バプテスト教会にて

説教を聴いて気になったこと


自粛生活の中、ウェブを介してさまざまな説教を聴く機会が与えられて感謝しています。


ところで、気になったことがあります。何人かの説教者が「それでは聖書を見ていきましょう」と言っているのです。
それはテレビ等で見る気象予報士の言葉とそっくりです。その人たちは気象の状況を専門的に詳しく分析してその情報を私たちに伝えてくれます。そこでしばしば「それでは気象状況を見ていきましょう」と言うのです。それとよく似たニュアンスなのです。

それは客観的、冷静に気象を「観察する」姿勢から出てくる言葉であるように思われます。
説教者が自らの携わっている行為を、まったく同じように「それでは聖書を見ていきましょう」と言い表すところに、それでいいのかなと私は思わされるのです。

私は「それでは神の言葉に耳を傾けていきましょう」とか「聖書を通して語っておられる神の声に、共に耳を傾けたいと思います」と言い表すようにしています。そこにあるのは「観察する姿勢」ではなく、神とその御言葉に対する「受け身の姿勢」です。

説教を最も深いところにおいて語っておられるのは私ではなく神ご自身であられる。そのことを認識するならば、まず説教者である私自身が神の声、神の言葉に耳を傾けるという「受け身の姿勢」へと導かれるはずです。そのように説教行為を受け止めるならば、そこで言い表す言葉もおのずと変わってくるであろうと私は考えています。

ちょっとした小さな表現の違いであり、ことさらに取りあげるほどのことではないと思われる方もおられるかもしれません。しかし説教は「究極的には」人間であるこの私が語るのではなく「神ご自身が語っておられる」のです。そのことを真剣に考えるならば、説教において語る私たちの姿勢や言葉はおのずと変わってこざるを得ないのではないでしょうか。

言葉はしばしばその語り手の在り方や行為を不思議にも象徴的に言い表すものともなり、また言葉はその在り方や行為に深く影響を及ぼすものともなっていくものでもあると思います。

江戸川散策(動画)

江戸川散策(動画)

今日は2021年2月22日(月)です。天気も良く、暖かかったのでバスに乗って江戸川まで散歩に出かけました。本当に春のようでした。雪国の方には申し訳ありません。

«礼拝説教「引き裂かれた私の救い」(動画)