2018年11月 8日 (木)

Tご夫妻との出会いがなければ

T牧師ご夫妻との出会いとそこで受けた愛の配慮がなければ、今の私はなかったであろう。

千葉県五井の地で私はT牧師夫妻に2年間にわたりお世話になった。ご夫妻が仕えておられた教会の一室を借り、寄宿生活を送ったのである。お二人はいつも暖かな心で未熟な私を受け止めてくださった。

T先生は笑顔を絶やさない方であった。周りには先生を慕う人々が集まっていた。そのような仲間と近くの海岸に潮干狩りに出かけたり、親しい農家を訪ねてミカン狩りをさせてもらったり、教会付属の幼稚園舎内に置かれた卓球台を用いて卓球の試合などを共に楽しんだ。当時としてはちょっと牧師らしくない、遊びをもこよなく愛する方であった。

奥様は近くの短大に通う私のためにいつも美味しいお弁当を作ってくださり、それを食べるのがとても楽しみであった。私は魚肉ソーセージを薄く切ってフライパンで焼き少し焦げ目の付いた数枚がご飯の上に置かれているのが大好きだった。

2年の時が過ぎ、私はその地を離れた。そして自分でも思ってもいなかった牧師になる道へと導かれた。そのことをT牧師夫妻は我がことのように喜んでくださった。

時は流れ、T牧師夫妻は五井の町での伝道牧会から退かれ、さらに奥に入った牛久の地において教会と幼稚園を始められたのであった。

そのような時期のある日、私は牛久教会を訪れた。奥様は近くの病院に入院しておられ、T先生お一人であった。先生は、私を園舎に招き入れてくださり、再会を喜んでくださった。

多くのことを語り合ったが、先生独特のあのニコニコ顔で語ってくださった一つのことを忘れることができない。
「自分は水戸黄門のように、牧師を引退したら、地方の貧しい教会を訪れ、説教をし、悩みに耳を傾け、献金を捧げて巡り歩きたい」。
いかにも先生らしい言葉であった。先生は茨城県出身であり、水戸黄門には愛着があったようである。
すでに高齢となっておられた先生が、その言葉をどれほど実行に移されたかは知るよしもない。

しかし、私は以来、ささやかではあるがT牧師のそのような志を受け継いで生きるようになった。地方の小さな教会を訪問し、説教し、悩みに耳を傾け、献金を捧げてきた。T牧師の言葉を耳にしなければ、私もそのように歩むことはなかったかもしれない。T牧師は私の永遠の恩師である。

ご夫妻はすでにこの世を去られたが、お二人から受けた恩と影響は大きなものであると思っている。やがて天国でご夫妻と再会できるであろうその時を楽しみにしている私である。

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2018年11月 5日 (月)

ドナルド・E・ホーク先生

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 1965年春、私は国立市にある日本クリスチャン・カレッジに入学した。その時は、ホーク学長の代理としてマクルキン先生が働いておられた。マクルキン先生は「キリスト教倫理学」を教えてくださったが、その最初のクラスの時に、キリスト教倫理とは「人の歩むべき道」のことであると、教室の黒板に書いてくださったことを今でも鮮明に覚えている。

 アメリカから帰ってこられたホーク学長に、私が出会ったのは2年生になってからである。とても背が高く、角張った顔で、チャペルのメッセージの時には、ズボンのポケットに手を入れて小銭を鳴らし、しきりにハンカチで鼻をかむ姿が印象的であった。

 1960年代と言えば、日本に学園紛争の嵐が猛烈に吹き荒れた時代である。どこの大学でも教授会と学生たちが激しく対立し、争いが起こっていた。そのような状況は伝染病のように日本全国に広がり、神学校もまたそのような雰囲気と状況の中に巻き込まれていった。

 ホーク学長は、そのような中でとても苦労された。日本クリスチャン・カレッジでも学校側と学生側は、さまざまな点で厳しい対決を余儀なくされたからである。当時は、伝統や権威への反発や反抗は、日本中に広がっていたように思う。学校側の求めや規則に対して、学生側はとにかく抵抗するという構図である。

 私自身は、2年生の時に学生会副会長に選ばれ、3年生の時には学生会会長に選ばれた。そのような立場において、学生側に立つべきか、教授会側に立つべきか、というジレンマに常にさいなまれ続けたのであった。ホーク学長とは、問題解決のためによく対談する機会があった。「学生たちは何を考えているのか、なぜそのように反抗するのか、私にはまったく分かりません」と言って、しばしばハンカチで涙をぬぐわれたのであった。

 嵐によって小舟が翻弄されるように、学園紛争という日本で吹き荒れていた大きな嵐の中で、私たち学生側も教授会側も、どうしてよいか分からないままに翻弄されていたように思う。このどうしようもない嵐に巻き込まれ、ホーク学長は深く苦悩されたのであった。そのことを知りながら、有効な橋渡し役を十分には果たすことができなかったことを、私は申し訳なく思っている。

 ある時、マーサ夫人が私たちのクラスに来られたことがある。何のために来られたのか、何を話されたのかを思い出すことはできないが、ただ一つのことは良く覚えている。「私は主人を心から愛しています」と告白されたことである。人の前で、夫に対する自らの愛を赤裸々に告白する態度に驚きを禁じ得なかった。それは一種のカルチャーショックでもあった。しかし、ショックを受けつつも、うらやましくまぶしい思いをもって、そのように語る夫人の姿に目を注いだのであった。

 やがて私は神学校を卒業し、間もなくして結婚した。その式にホーク学長とマーサ夫人が揃って出席してくださった。お二人が写っているその写真を見る度に、至らない学生であったにも関わらず、大きな愛と忍耐をもって私に接してくださったことを思い、申し訳なさと感謝の念が私の心の中には入り交じって湧き上がって来る。

 

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2018年11月 4日 (日)

試練に耐える

私たちは自分が一番不幸であると思ったり、自分の今の苦しみを誰も分かってくれないなどと思って落ち込むようなことはないでしょうか。
しかし聖書は語っています。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」(第1コリント10:13)。

しばしば私たちは苦しみの中で、「どうして、自分だけがこのように」と思いがちです。
しかしここには、「そのような苦しみは、あなた一人だけではないのですよ」と語りかけられています。

私たちの教会に通って来ておられるご婦人が足を骨折し、入院されました。
その方が退院後にこのようなことを語っておられたのです。
「私は自分が一番重傷で不幸だと思っていました。
でも私より大変な患者さんが多くおられるのを知り、自分の不幸を嘆くことはやめました」と。
そうです。私たちの苦しみは、大なり小なり同じように体験している人々がいるのです。

聖書は私たちが自分が味わっている苦しみを見つめて落ち込むのではなく、目を上げ、多くの人も同じような苦しみを味わっていることを覚え、さらに目をもっと上げ、神ご自身を見つめるようにと語りかけています。

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(第1コリント10:13)。

試練があまりにも過酷であれば、人は倒れて二度と立ち上がれなくなるようなこともあります。しかし、私たちが試練によって押しつぶされることがないように、神は配慮していてくださいます。

のみならず、そこからの脱出の道をも開き、試練の中にも希望を失うことのないようにと私たちを助けてくださるのです。

このような聖書の言葉を知り、このような神の愛の配慮を覚え、どんな試練にも耐え抜く者でありたいですね。

 

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2018年11月 3日 (土)

母の死と冬の虹

私の母は長野県出身である。
牧師であった私の父と結婚し、島根県の農村地域に移り住み、そこで夫を助けて伝道牧会に専念し、68年の生涯を閉じた。
その間、郷里の長野県には一度も帰ることのなかった母であった。

戦後の日本社会は敗戦のゆえに生活物資は乏しくきわめて貧しい状況にあった。
父は自宅を用いて教会としたが、そこには社会的弱者とされる人々が多く集まって来ていた。

教会は村にあったが、となり町には警察署があり、扱いにくい人が来ると、隣村のあの教会に行けばなんとかしてくれるだろうから行ってみるように、といったようなことが定着していた。
刑務所出の前科3犯とか8犯とかいった人たちが転がり込んできたり、家賃が払えないで追い出された夫婦が飛び込んで来たりと、我が家にはいつもそのような人々があふれていた。

母は大変であった。私たち子供をひとり産むごとに歯が一本ずつ抜けると言いながらまたたくうちに歯は無くなり、夜は遅くまで裁縫の内職をして家計を支え、肩が凝る肩が凝るとこぼしていた。5人の我が子と孤児5人を抱える家庭、様々な人がやって来て寝泊まりする教会、そして周辺地域の社会的弱者とされる人々に尽くす母であった。

後年、これまでの様々な慈善行為に対し、町役場から表彰したいとの打診があった。
しかし、「そんなことのためにやっているのではありません」、きっぱりと断ったのはいかにも母らしかった。

年をとり、乳癌と肺癌を患い、隣町の病院で68歳の生涯を閉じた。
母が召されたのは12月も末のクリスマス・シーズンであった。
不思議なことに、その臨終の際に病院の窓の外に実にあざやかで美しい冬の虹がかかったのである。

神はノアと虹の契約を結ばれたのであるが、神に仕え隣人に仕えて死んでいった母に対しても、まことに美しい虹をもってその死を装ってくださり、そのふところに受け止めてくださったのであると私は信じている。

 


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2018年10月31日 (水)

陰で悪口を言うのはやめよう

牧師となった私の最初の赴任地は北海道室蘭市。
赴任後間もなく、神学校の後輩がやってきた。
彼女は神学校では家内と親しく、北海道旅行の途中に我が家を訪ねて一泊したのである。

私たちは夜のふけるのも忘れて思い出話で盛り上がった。
そのうちに話題が神学校の後輩である一人の男性について移っていった。
その後輩男性について私も家内もあまり良い印象を持ってはいなかった。
私たち夫婦は、ここぞとばかりあらゆる点にわたって彼をこきおろしたのであった。

我が家で一夜を過ごした後輩は、翌日お礼を述べて旅立って行った。

半年後のことである。
私たちの家に一泊したあの女性から驚くべき便りがもたらされた。
それは、(私たちがこきおろせる限りこきおろした)あの男性と結婚しますとの知らせであった。
思いもよらぬ事柄の進展に私たちは面食らった。

私たちは思っていた。
ここは東京から遠く離れた場所である、私たちは彼に再び会うような関係にはまったくない、彼と彼女との関係はきわめて薄いものである。
しかし、そう思っていたその彼女とその彼とが結婚するようになるとは!
私たちが受けたショックは計り知れないものであった。

どれぐらいの時が経過したであろうか、私と家内は誓い合った、決して陰で人の悪口は言うまい、と。

イエス・キリストが語られた言葉はまことにその通りである。
「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」(ルカ福音書8:17)。


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2018年10月30日 (火)

名前を呼ばれる嬉しさ

大学生時代、千葉県のある町にあった「中村屋」という雑貨屋で夏のアルバイトをしたことがあります。
お米やお味噌やお酒などを車に積んで飯場(はんば)に届ける仕事でした。
「飯場」とは、土木工事や建設現場などにある作業員のための給食宿泊施設のことです。
当時は好景気で建設ラッシュが続き、私が住む地域も工場建設のための飯場が溢れていました。
どの飯場へ行っても、「中村屋さん」(雑貨店の名前)とか「小僧さん」とか「おい、おい」とか呼ばれました。

しかしある飯場に行くと、そこのまかないのおばさんが声をかけてくれました。
「あら、新しいアルバイトさんね。名前は何というの?」
「はい、藤原と言います」
「そう、分かったわ。それでは、これからあなたを藤原くんと呼ぶからね」

そして、その飯場に品物を届けに行くたびに「藤原くん」「藤原くん」を呼んでくれたのです。
本当に嬉しかったです。
その飯場を訪れる時は、何だか力が湧いてくるようで、深い喜びがありました。
私という存在が、藤原という一人の固有な存在として認められたということが嬉しかったのだと思います。

そのような忘れがたい体験もあり、相手の名前を声に出して呼びかけるということを私は常に心がけています。
最近は忘れっぽくなってきたので、小さなメモ帳を携え、そこに人の名前を書き連ね、眺め、祈り、覚えるように努めています。
そして、いざその人に会う時には、はっきりと名前で呼びかけます。
あの飯場のおばさんが私を名前で呼んでくれたように。

その人の存在をはっきりと認めて向きあっていこうとするためには、そのようにささやかなところからも始まっていくのだと私は信じています。

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2018年10月28日 (日)

明日を誇るな

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」。

旧約聖書・箴言27章1節の言葉です。

考えてみれば、確かにそのとおり。私たちは今日何が起こるかさえ知りません。にもかかわらず明日のことを誇ってしまいがちです。しかし聖書は、自らの分をわきまえ、明日のことを誇るなと警告しています。

「箴言」は「格言」と言い換えることもできます。箴言や格言は人生の真理を分かりやすく簡潔なかたちにまとめた時代を超える言葉であり、あらゆる人に当てはまると言えましょう。

新約聖書・ヤコブ書はこのように語っています。

「今日か、明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、明日のことは分からないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(4:13-15)

先の箴言の戒めを私たちの実際生活に当てはめて語り直してくれているような感がします。その意味合いはほぼ同じでありましょう。私たちは明日のことを誇るような思い違いや生き方をしてはならないということ。それは人間の限界をわきまえないことであり、そうあってはならないというメッセージです。

私たちの明日の命の保証は、私たちが左右できるものでなく、実に神の手に握られている!
このことをわきまえて生きる心を失わないで日々を歩みたいものです。

 

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2018年10月26日 (金)

多すぎる日本語聖書

お茶の水聖書学院はJR御茶ノ水駅近くにあり、聖書と教会音楽を学ぶ超教派の学院である。
私は今、そこで「ヨハネの福音書」を十数人の学生と共に学んでいる。
学生の多くは中高年、老年期の男性、女性たちである。
そこには緊張感がありつつも、自由で楽しい雰囲気が溢れている。

最近、あらためて驚かされたことがある。
席順にそって聖書テキストを学生に朗読してもらった。
すると彼らの聖書は、口語訳聖書、新改訳聖書、新共同訳聖書、新改訳2017聖書など、それぞれ異なっていたのである。
なぜ、各学生の手持ちの聖書はかくも異なっているのか。
それは、各学生が通う教会で使われている聖書が、それぞれに異なっているからである。

1)さまざまな翻訳聖書があるのはバラエティーに富んでいて良いという考えや意見もある。
それも分からないわけではない。
聖書原語に即してより正確に訳すこと、時代に即してよりふさわしく訳すこと、への取り組みは常に真剣に続けられており、そのことの大切さも理解しているつもりである。
しかし、お茶の水聖書学院クラスの上記のような現実に照らせば、邦訳聖書の種類の多さはとまどいや違和感をもたらすようにも思えるのである。

2)かつて私は口語訳聖書を使っていたが、今は新改訳聖書である。
さらに新しい邦訳聖書が出てきているが、なかなか頭と心が追いつかないでいる。
長年なじんできた聖書から新しい聖書に移るのは、長年住んできた我が家を離れて別の家に引っ越すような感じがある。
心の準備がなかなか整わず、決断するのは簡単ではない。
新しい家には新しい魅力もあるであろうが、長年住み慣れてきた愛着のある我が家を去ることはしのびない気持ちもする。
使い慣れたこれまでの聖書から新しい聖書に移ることにも同じような思いを抱くのである。

3)教会においても、信徒の方々は引っ越し等で、他の教会に移ったり、他の教会から移って来られるようなことがしばしばある。
そこで直面して悩むことの一つに、これまでの教会で使っていた聖書とは違った聖書を使わなければならず、なかなかなじめないということがある。
どの教会に行っても同じ聖書であるならば、異なった訳の聖書に直面してとまどったり、時には葛藤したりということは少なくなることであろう。

4)ここ数年、私は日曜日ごとに異なった教会に招かれて礼拝説教の奉仕をする機会が多くなった。
その際に戸惑いを覚え、苦労するのが行く先の教会で用いられている聖書が同じではないということである。
実際には、新改訳聖書、新共同訳聖書、新改訳2017聖書などである。
私は奉仕先の教会で用いられている聖書が何訳であるかを事前に尋ね、それに合わせて説教準備をする。
時には相手の教会から、私たちの教会では何々訳を使っているので、その訳の聖書でお願いしますといった事前のお願いがあったりもする。
その時々によって異なった聖書を用いて説教準備をするということは決して簡単な作業ではない。
ゆえに私の机の上には、数冊の異なった邦訳聖書がいつも置かれている。
奉仕先の教会で使われている聖書をその中から選び出し、その聖書で説教を準備し、その聖書で説教する。
これもまた簡単なことではない。

キリスト教会は古くから基本信条として「使徒信条」を告白してきた歴史がある。
そこには、「我は聖なる公同の教会を信じる」と謳われている。
告白されているのは、普遍的でひとつなる教会である。
教会は分散に向かうよりも、ひとつへと向かうことが期待され、告白されているのである。
それが見えるかたちにおいてなのか、霊的意味においてなのかは議論の分かれるところでもあるが、いずれにしても外的に霊的により良い調和に向かって収斂していくことが望まれていることは間違いないであろう。

このように聖書に基づいて成立した信条が、描き出し期待する教会の在り方に照らして、日本における聖書翻訳の実状はどうなのであろうか。
私たちが共に告白する「聖なる公同の教会」という信仰や神学に、聖書翻訳の動機や現実は果たして重なり合っているのであろうか。
私たちに与えられた基本信条の告白に対してもっと真剣に着目し、その実現に向けて共に祈り取り組むことが求められているのではないだろうか。
その意味からすれば、日本における聖書翻訳作業も一つにまとまる方向に進むことが望ましいように思う。
そうすれば前述したような、異なった邦訳聖書の多さゆえに引き起こされるとまどいや違和感は減少することであろう。
多くの牧師や信徒もそのように考え、そのように望んでいるのではないだろうか。
もちろん、私自身もそのように祈り願う者の一人である。

神はこの日本の聖書翻訳の現状をどのようにご覧になっているのであろうか?

 


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2018年10月22日 (月)

老女のゴミ拾い

先日、家の近くを散歩していたら、このようなことがありました。

一人の老婦人がビニール袋を手に持ってゴミを拾っておられるのです。
背中も足も曲がった、80歳くらいに見える方でした。
道路やその周辺には、投げ捨てられたペットボトル、ビニール、紙切れ、空き缶などが散らばっています。
それらを、一つ一つ拾っては小さなビニール袋に入れておられる。
そして近くの公園に大きなビニール袋を置き、そこに集めてきたゴミ類をまとめて入れておられるのです。

私は「こんにちは。ありがとうございます」、と声をかけました。
すると、その女性は手を休め、私に話しかけてこられました。

「私は大病を患って病院に入っていたんです。
でも、やっと退院して、どうにか歩けるようになりました。
お医者さんから毎日歩くように言われて、散歩しているんです。
再び歩けるようになるなんて信じられません。
本当に嬉しくてたまりません。
でも、散歩だけでは申し訳ない。
病気が治って歩けるようになったことを感謝したい。
だから、感謝を表すためにこのように毎日ゴミを拾っているんです」。

私は、その婦人の言葉を聞いて心を打たれました。
そして、「どうぞ、お大事になさってください」と心から声をかけ、さらに散歩を続けました。

美しい生き方に触れた感動の余韻が今も私の心の中に残っています。
それは言葉とは別のかたちで語りかけられた神からのメッセージであったのかもしれません。

 

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2018年10月21日 (日)

ゆるすこころ

「ゆるす」ということは、何と難しいことでしょう。

ゆるせないで人は苦しみます。ゆるしてもらえないで苦しむこともあります。

家庭で、学校で、職場で、このような苦悩を味わっている人は少なくないでしょう。

聖書は語りかけています。

「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ書3章13節)。

ここに教えられている大切な点は、神からゆるしていただいたという体験によって、私たちも他の人をゆるせるようになっていくという不思議な消息です。
ゆるされたことのない人が、どうして人を心からゆるすことができるのでしょう。
本当にゆるされたことのある人こそが、本当に人をゆるすことができるようになっていくのです。

キリストを通して神を知るということは、実に神は私たちをキリストによってゆるしてくださっているという深い恵みを知るということにほかなりません。

神が私たちをゆるしてくださっているという、この恵みにあずかって生きることによってこそ、私たちもまた人をゆるせる者へと変えられていくのです。

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